福島第一原発事故で横浜市に自主避難をした児童が「賠償金あるだろ」と言われ、ゲームセンターなどで150万円支払わされた。この問題は、かなりセンセーショナルに報じられ、1月20日の横浜市議会の常任委員会での横浜市教育長の 発言 に対して、疑問の声と共に非難の電話が殺到し、いじめの認定可否という新たな問題として注目されました。


私もこの報道を知ったときは憤りを感じました。しかし、横浜市教育長の 「関わったとされる子どもたちが『おごってもらった』と言っていることなどから、いじめという結論を導くのは疑問がある」とは、一体どういう見解なのだろうか。と疑問を抱き調べてみることにしました。


横浜市教育委員会の見解は、 「おごりおごられ行為そのものについては『いじめ』と認定することはできないが、当該児童の行動(おごり)の要因に『いじめ』が存在したことは認められる。」というものです。


私は、この 見解を知って「なるほど。これなら納得できる」と、現在ではその考え方を支持したいと考えており、そのいくつかの理由を説明したいと思います。また、ブログのタイトルについても当初は「横浜市教育委員会の判断は正しい」にしようと考えていましたが、「・・・支持する」に変更した点についての説明も付け加えましたので、最後まで読み進めていただきたいと思っています。


我が家での出来事

私には小学4年生の息子がいます。お正月が終わり、冬休み最終日となった息子との会話を紹介します。
 

:明日はお父さんも、お母さんも、どうしてもお昼に家にいることが出来ないから、一人でお昼ご飯を食べてね。

:せっかくだから、自分で買って食べることを経験してみたらどう?

息子 :駄目だよ。お金をもって遊びに行っちゃいけないんだ。

:学校で教わったのね。

:その指導の目的は、友達同士の金銭トラブルを防止することでしょ。そこまでは理解できないのかな。


私は、この会話の後に「お金を持って遊びに行ってはいけない」という指導の本来の目的を息子に説明しましたが、彼の様子からは半分くらいしか理解できていないように見えました。この点で私が言いたいのは、学校側は子供同士が安易に「おごり、おごられ行為」をしてしまうことを承知した上で、普段から金銭トラブルやいじめへの発展を防止する為に指導しているということです。


また、その数日後には、公園で息子を含めた複数人の子供達がひとつのスナック菓子を楽しそうに食べているのを見かけました。この時は「インフルエンザがうつるわけだ・・・」としか思いませんでしたが、帰宅後の息子に聞くと「友達が持ってきて、みんなで食べたよ」とのこと。引き続き、こんな話もありました。「〇〇君は、みんなにお菓子をあげたのに僕にだけくれなかった。くれるって約束してたのに・・・」


保護者の視点と、子どもの日常

子供同士の他愛もない出来事です。私はその○○君を知っていることから問題視はしませんでしたし、その後も彼らは仲良く遊んでいます。しかし、この出来事が延々と繰り返し行われていたらと想像すると、「息子はいじめられてるのではないか」との疑いを持つようになるでしょう。仮定の話ですが、この場合は「うちの息子だけお菓子をもらえない」→「のけ者にされている」→「いじめだ」という結論に至り、私が学校等へ何らかの主張をすることも考えられます。


また、昨年の夏に「飲み物を買う」という息子に渡したお金と「お釣り」として受け取った金額の差異に違和感を感じた妻が、息子の行動を追及したところ「友達におごった」という事実があったことも思い返されます。ひょっとしたら、のけ者になった友達が存在していたのかもしれません。


冷静に考えれば「おごってもらえないから、いじめだ」という論理が成立しないことは、私も承知しています。この点で私が言いたいのは、我が子を守ろうとする保護者の感情は理性を保てない場面が容易に有り得るということ。そして、成長途中の子供たちの思考は不安定なものであり、何時でも「いじめをする側・される側」になり得る可能性があるということです。


「おごり・おごられ」の行為だけで「いじめ」を認定するという事実を、前述したような子供たちの日常に当てはめたときには、多くの保護者と児童が望まない状況を生み出してしまうのではないでしょうか。私と同様の考えかどうかは分かりませんが横浜市教育委員会は「子供たちの日常をよく理解しているんだな」というのが、私が支持した理由です。


保護者である親は、我が子が「いじめをする側にも、される側」にもならないことを願っています。そして、如何なる状況に陥っても我が子を守ろうとするでしょう。息子がどちらかの側に陥った時のことに想像を巡らせ自問自答してみましたが、我が子を守ろうとする余り立場に応じて真逆の主張をするのではないかとの結論以外に、その域を超える考えに及ぶことが出来ませんでした。議員であった私が、置かれる状況次第で主張を変えるなどということがあってはならないことを承知していますが、これが親としての偽らざる感情なのです。


そして、更に考えを深めていくと、このような愛情の保護下にある子どもたちに、倫理や道徳を教えることが、如何に困難なことであるかに気がつくことが出来ます。学校でいくら理屈を教わっても、清濁併せ呑んで我が子を守ろうとする親の存在はその理屈と相反しているからです。


教育委員会としての視点

今回のいじめ認定問題を殺人事件に例えて考えてみてください。殺人(刑事)事件の場合、「故意」か「不注意(過失)」かによって責任の重さが変わってきます。殺人ならば最高刑は死刑で、過失致死なら5年以下の懲役または禁固であり、ここには大きな違いがあります。しかし、被害者にしてみれば、受けた傷や愛する人を失った悲しみや喪失感は、殺人が故意か過失かに関係がありません。これは、「社会の納得」と「被害者の納得」が必ずしも一致しないことを表しています。


殺人(刑事)事件の場合に加害者がとるべき責任は、命を失った被害者に対してではなく、侵害された法益に対してであり、法益とは「法が守るべき国民の生命、財産、社会秩序」です。殺人という大きな罪に対しても一刀両断するのではなく、加害者側に汲むべき事情(過失)がある場合には、それを加味することで「国民の生命、財産、社会秩序」を守っているのです。簡単に言えば、あなたが料理中に包丁を手に持ったまま振り返り、うっかり人を傷つけた、または殺してしまった場合に故意の殺人とは区別して、あなたを守っています。そして、この区別が社会秩序を守っていると考えられます。


こうした観点から、今回のいじめ認定問題を考えると「おごり、おごられ行為」だけでいじめと認定した場合、前述したジュースをおごった私の息子とジュースをおごられた息子の友人が、いじめをする側とされる側として、いじめの認定対象になり得てしまうということです。いくら学校や家庭で子どもに指導や教育をしていても、子どもたちの日常に「おごり、おごられ行為」は存在し続けているのが現状です。教育委員会を裁判官として例えるならば、殺人のような場合でも一刀両断しないのと同様に慎重に考えなければならないでしょう。ましてや、誤った前例を作り、より秩序を乱すようなことは許されません。


「正しい」から「支持する」に変えた理由

冒頭で述べているように、私はこのブログのタイトルを「横浜市教育委員会の判断は正しい」から「・・・支持する」に変更しました。ここまで読み進めていただき、既にお気づきの方も多くいると思いますが、これまで述べた私の考えはあくまで一人の父親としての立場から、この問題を客観的に考察した結論であり、いじめにあった児童が私の息子であった場合は、その限りではないということからです。


きっと、我が子を守る為に考えられ得る全ての手段を講じるでしょうし、親しい友人の子どもであった場合には、その手段を支持するでしょう。ですから、「正しい」と断じることを考え直して「支持する」に変更しました。


この問題は、どの立場で考察するかで変わっても良いと思っています。しかし、私と同様に客観的な立場である場合には、前述したようなことも踏まえ冷静に論じるべきでしょう。決して、断片的な情報で声高に論じるべきではないのです。