深夜0時頃、私はその場所に放り込まれた。建物は横浜中華街の一角にあり、その周辺は私にとって生まれ育った町とも言える見慣れた風景だった。逮捕時には取調べの為と聞かされたが、建物に到着後の一室ではアルコール検査のみが行われ、早々にその部屋からの移動が始まった。別の職員に引き渡され、パジャマのような衣類に着替えるように指示された後、一方的に何かの説明を受けた気がする。私は淡々と進む作業に困惑したまま、幾度も遮る鉄の扉の向こう側、異様な雰囲気に包まれた警察署内の留置施設に通された。


施設内は薄暗くも全体が見渡せた記憶がある。人の気配を感じるが私を先導する職員以外には、その存在が確認出来なかった。目の前には鈍く光る格子が連なり、格子を通して向こう側に見える窓には見慣れたネオンがぼんやりと浮かび上がる。細い通路の先で布団と毛布を手渡され戻ると、先ほど見た格子の中に入るように指示をされ、そこで初めてその格子が鉄製の冷たい檻だと気付いた。また、入室時に感じた人の気配が檻の中で横たわる人間のものだと分かり、私は異様な光景に言い知れぬ恐怖を感じたまま、渡された布団と毛布に潜るように眠りについた。


後の取調べで、私はこの時の心境を「久しぶりに布団で眠りほっとした」と話している。町会議員に当選後の約1年間、私は眠気に抵抗しながら深夜まで調べものを続け、そのままソファーで眠るという終わりの見えない作業と日々を送っていたからだ。


そして翌朝、起床後に同じ檻の人たちに言われるがまま布団をたたみ、檻の中を清掃し、檻の中で横一列に座った。すると、番号を言う大きな声と、やる気のない「はい」だか「へい」という声が交互に聞こえ始めた。大きな声を発する職員が私の居る檻の前にきて、その番号が人を指していることに気付いた。点呼なのだと察した瞬間に応答が途切れて皆がこちらを向いた。再び「12番」と呼ぶ声と周囲の人に即されて私は「はい」と返事をし、その瞬間に苛立ちを感じたのを覚えている。この日から私は12番になったのだ。


こうして私は12番として、通称「ブタ箱」と呼ばれる施設でいつ終わるのか分からない生活が突然に始まった。情報が遮断された軟禁状態を生活と呼ぶかは疑問だが、突然、自由を奪われた人間がブタ箱の中で生きているのは紛れもない事実だ。歯ブラシやタオル、ボールペンに至るまで、中で許される必要最低限の私物の全てに12番と記され、それらを見るたびに苛立ちが募る。檻の中はゴムで出来たような畳に、大きなガラスが張られたトイレが備わり、原則として取調べと面会以外には、洗面、運動、布団の上げ下げ、5日に1回の風呂でしか出ることは許されない。その全てが外部と断絶された留置施設であり警察署のワンフロアーにある。


結果として、私は1ヶ月程度この抑圧された異常な環境に身をおいたが、驚くことに半年や一年近くもこの場所で過ごしている人もいた。ここで同じ檻に居た40代の男は何度か刑務所に行ったらしく「早く刑務所に行きてぇよ」と言い更に私を驚かせた。信じがたいが、刑罰を受ける為の矯正施設である刑務所は「まだ、まし」であると言い、この場所は刑務所よりも更に過酷な環境にあると言うのだ。これを聞いた当初の私は、この施設に居る人間はまだ判決前の容疑者であっても犯罪者ではないのに、なぜ。と疑問と憤りを感じた。


留置施設での疑問は多くあるが、中でも薬の処方に関してはトラウマになる程に不気味で衝撃的だった。副作用により夜中の言動を覚えていない人が多くいたからだ。同じ檻に居た20代の男は夜中に歩き出し聞き取れない何かを喋り、服を脱ぐときもあった。70代の男も同じく夜中に大声で「納豆食いてーなー、納豆頂戴よー」と言ったり、「ロッカーにあるポテトフライとってよ」「内緒で頼むよ」と職員に懇願し「無理に決まってるでしょ」と窘められていた。しかし、2人とも翌朝にその言動を覚えていない。慣れるまでは実に不気味だった。


後に、通院当初の私は不眠が原因で医師から「アルコールよりも体に良い」と睡眠導入剤を勧めらたが、上述の光景が頭から離れずに頑なに断っている。


この施設では大半の人が薬を処方されていた。食事の度に薬を受け取り、水を含み、飲み終わると口を大きく開けて口内を職員に見せる。どうやら職員は飲んだことを確認しているようだった。恐らくは向精神薬や睡眠導入剤だったのだと思うが、要するに彼らにとってはシラフではいられないほどに過酷な状況ということだ。


私は彼らが不憫に思え日中に出来るだけ会話を重ねた。いや、自らの正気を保つ為だったのかもしれない。彼らを多少なりとも知る事が出来たが、その会話からでは逮捕前に出会ってきた人たちとの大きな違いを感じることは最後まで出来なかった。社会では犯罪者とそうでない者を隔てる壁は高いが、人間としての違いは大きくなく、誰しも僅かな切欠で犯罪者になり得る可能性があるのだということを肌で感じた。


上述の20代の男に至っては、そのストレスからか頭に幾つも部分的なハゲを作っていて、とても痛々しく感じ特に会話を重ねていた。すると「自分もこんな薬に頼らないで強くなります」と言い、職員に薬の服用を断り始めた。私は彼が前向きな姿勢になったことを嬉しく思い見守っていたのだが、2日後には嘔吐し喉から腹部の痛みを訴えて病院に運ばれてしまった。彼は素直な青年であったが為に、私が無理をさせてしまったのかもしれない。


この過酷な留置施設のあり方に関しては賛否があるのだと思う。抑圧する効果から犯罪に関する言質を引き出す考えもあるのだろう。しかし、私の実感としては冤罪を引き起こす温床にも思えてならない。特に精神的な弱さがあった場合には、自らの主張を曲げて調書の内容を警察側に委ねようとする考えが十分にあり得ると思う。また、簡単な診察で処方してしまうシステムや処方薬を賄う為に膨大な税金が使われていることにも問題を感じずにはいられない。


私は罪を犯したが、この経験を無駄にしたくないと考えている。


私は抑圧された状況下で、初めて「不自由」を知った。現在は不自由を知ったことで、自由を実感している。逮捕前よりも困難な生活が続くが、自由であることを実感できる日々はとても幸せで貴重なものだと考えるようになった。世の中には様々なハンデを背負っている人がいて、様々な不自由を抱えている人がいる。以前では立てなかった人の立場に立って物事を考えていきたいと思う。