2016年3月某日に私は保釈となった。逮捕から一か月程度の拘留期間であったが、突然に自由を奪われ、先の見えない抑圧された日々からの解放は、本来なら晴々とした気分になるのだろう。しかし、私には解放と同時に人生で最も恐怖を感じる場面が控えていた。私は警察署の一階に降り、警官だけが行き交うロビー手前の殺風景な廊下で静かに呼吸を整えた。


ロビーの先にある警察署の玄関口を見つめ、私は自らの顔をパンパンと叩き、少し大きめの声で「行きましょう」と鼓舞するように弁護士に告げて歩き出す。ロビー中央を横切る際の視界には、受付けを待つ来庁者、応答や作業をする職員。その普段と変わりない様子は、私の恐怖に対する怯えを緩和した。


そうして至った警察署の玄関口での光景は今も忘れられない。これまでの職業柄、大勢の人の前に立つことには慣れていたが、その視線や光景はそれとはまるで違う異様な空間だった。通常、人が集まる場所に登場する者は、求めに応じている場合が殆どだろう。しかし、この場の群集が求めているものは決して私という者ではない。罪を犯した人間への好奇であり、その求めを生業とするカメラ、レンズ越しの職業意識からの視線なのだ。


玄関口は、建物前面の駐車場から階段を上がる構造であり、群集からは、まるで舞台か朝礼台の上のように私の姿が見えていただろう。群集の向こうには横浜中華街のシンボル的な善隣門が見え、生まれ育った町の見慣れた風景が広がる。私は戸惑いながらも玄関口から数歩前に出て立ち止まった。マスコミ関係者との事前の打ち合わせがあった訳ではないが、向けられている多くの視線とカメラを無視することは許されない気がした。


マスコミ関係者は私の右手側で、記念写真を撮る団体のように下段、中断、上段と、整理された状態で一様にカメラを向けていた。私との間には駐車場があり数十メートルの距離があったと思うが、届くであろう大きさの声で「申し訳ありませんでした」と言い、私は頭を下げた。後に、弁護士から頭を下げていた時間について「長かったね」と声を掛けられたが、その経過は余り覚えていない。その間の私の心の内は、外国人が片言の日本語を話すように「ごめんなさい」「申し訳ない」「迷惑をかけた」「お騒がせした」などの言葉がグルグルと脳裏を巡っていた。感覚としては墓石に手を合わせ、故人に思いを伝えるのと似ていた様に思う。


そして、左手側には観光で中華街を訪れていたのだろうか。多くの一般の方々が足を止めて、動物園で動物を見るような状態で、格子状のフェンス越しに私を注視していた。マスコミがいることは、警察署を出るタイミングを促がした刑事から聞かされていたが、この左手側の群集については想像をしていなかった。人間はそんな場面でこそ素になるのだろう。私はその左手の群集にも同じように素直な気持ちで頭を下げ、正面に向き直して、弁護士の用意した車両に向かって階段を下り始めた。


上述したように、シナリオがあるわけではないので警察署の玄関口からは全て困惑しながらの行動であって、私が冷静に記憶しているのもこの辺までである。待機していた車両のドアを自ら開けたのか、開いていたのかも覚えていないが、車両まで数歩のところで報道陣から何かを言う声が聞こえてきた。記者同士の声が重なったのか、雑踏によってかき消されたのか、私は聞き取ることが出来ずに階段上と同じように言葉を発して頭を下げ、車両に乗り込もうとした。


すると、車両に乗り込む直前にマスコミが一斉に走り向かってきた。いや、厳密には走り出した者の後を追って一斉に走り出したように見えたのだろう。しかし、この時は不思議と恐怖を感じていなかった。警察に促がされマナーなのか、ルールなのかを守り、整理されていた報道陣の姿を見ていたからかもしれない。私は弁護士に押し込まれるように後部座席に乗り込んだものの、後に続いた弁護士は記者に阻まれ、乗り込むのも、ドアを閉めるのも容易ではなかった。


その間、記者からは怒鳴りつけるような声で何かを問われていたと思うが、質問や取材という類には感じられず、私は応答していない。彼らの過激な行動に怒りがあったのかもしれないが、目の前の状況から、弁護士に怪我がないかが心配で車中で確認をしていた。後日談になるが、報道関係者によると、記者らが過激な行動や罵声を浴びせるのは常套手段だという。対象の悪質な表情や傍若無人な態度を映像に収める為なのだそうだ。彼らの使命は如何にドラマチックに、サスペンス性を高められる「使える画」が撮れるかなのだ。


今になって思えば、この時の状況に警察組織の思惑や、報道機関との関係性が映し出されていたように思える。「逮捕後に見た世の中のタブー」に記した通りであるが、警察署敷地内で車両に詰め寄る記者やカメラマンを許し、傍観する理由を他に見つけることが出来ない。直前までは、見事に整理して私が警察署を出るタイミングまで計っていたのだから。


私を乗せた車両はマスコミに囲まれながら、どうにか車道を走り出した。その間も、信号で停車する際も、ルール無用でカメラを向け続けていた。車道の中央まで出てきたカメラマンもおり、心底、事故が起きないことを祈った。自分が原因で怪我人が出るようなことは、本当にあって欲しくなかった。これは自らを美化する為の表現ではなく、こうした意識を出所者コンプレックスと呼ぶのだそうだ。どんなに過酷な状況や仕打ちにあっても「自分が悪いのだ」と自らを責め続け、塞ぎ込み、煩悶とした日々を過ごし、刑務所を出所した人間の精神的社会復帰を困難にする要因のひとつでもある。


車両を運転する弁護士事務所の職員、後部座席で私の両側に座る弁護士が執拗にマスコミの尾行を警戒し、当ての無い運行がしばらく続くも、その間に今後についての打ち合わせをすることは無かった。憔悴する私を気遣ってくれていたのだろう。そうして、私は妻と友人の待つ駐車場に到着して弁護士にお礼を述べ降車した。


友人と妻に会い、私はようやく安堵した。友人の差し出すタバコがまるでドラマか映画のようで滑稽に思え笑みを浮かべたが、この時、自らの笑みに違和感があったのを覚えている。この後、しばらくの期間、私は自らが笑顔することに後ろめたさを感じる日々が続くことになる。


そして、その場に、心底恋しかった息子の姿が無いことに落胆をした。それは、予期できない最悪のケースを想定しての妻と友人の配慮からであった。私は会話もそこそこに、息子の待つ場所へ急ぎ車を走らせた。息子との再会はドラマのように感動的なものではなく、彼はどこか恥ずかしげで、ぎこちなさを感じさせた。無理もないだろう。父親が報道される場面も目にしているだろうし、突然、引越しを余儀なくされ、学校へいくことも控えさせられる異常な日々が続いていたのだから。


その場は、再び息子を抱きしめることが出来たことの幸せと、彼の温もりが幾許か心を癒してくれた。しかし、上述したように、犯罪者には様々な背徳感が次々と押し寄せる日々が続くことになることを、この時は知る由もなく、更生や社会復帰に対して無知で無関心であった自分を恥じる日々の始まりでもあった。