覚醒剤を使用した原因について「辛いことがあったのでしょうね」という、同情にも似た言葉を寄せられることが多い。これは、察するに覚醒剤に対するイメージを、嫌なことを忘れる為に酒を飲む行為と同一視しているからだろう。そして、このイメージを起点としているからか、私を批判するコメント等にも「重圧から逃げた」「弱い人間」といった言葉が多かった。


私は公判で「インチキをした」と述べている。この発言の真意を例えるなら、認められない薬を使用してでも速く走ろうとする、陸上選手のドーピングに似た感覚だ。2回の落選を経て当選した私には明確な議員像があり、その理想に近づく為に懸命に仕事に励んでいた。皮肉にも、内偵していた当時を振り返った刑事は、取調べ時において「年末頃、急に走り出したな」と私に話している。


私は覚醒剤を肯定しようとは考えていない。しかし、「覚醒剤をサクッとやめるには」に記したように、医師の言う「事実とイメージの大きな乖離」については私も違和感を覚える。そこで、私に寄せられる問いから「なぜ、使用したのか」について説明しようと考え、あらためて覚醒剤について調べてみた。


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噂や医師の話にもあったが、覚醒剤を発明したのは日本人で、戦時中の軍需工場で能率を高める為に覚醒剤が使用され、薬局で一般的に販売してたのは事実のようだ。戦争が終わったことで大量のストックが市場に流出し、敗戦後の混乱から国民の鬱屈とした感情もあり、単なる医薬品ではなく嗜好品として流行したようだ。


その後、昭和25年に薬事法で劇薬に指定され、翌年「覚せい剤取締法」が施行されたが、すでに覚醒剤はきわめて深刻に蔓延していたという。本稿に用いた画像は、薬局で販売されていた覚醒剤の宣伝である。この宣伝には適応症として、一、体や精神を酷使する時。二、徹夜作業や眠気の除去が必要な時。三、疲労や乗り物酔いの時。に、効果があると書かれてある。羞恥であるが私の実感とも一致しており、まさに私が覚醒剤を使用した要因である。


私が覚醒剤に頼ったのは、調べもの。資料作成。そして、そこに用いる時間に不足を感じ睡眠を抑制することを目的としていた。集中力の向上にも作用していたように思う。このようにして依存する者が日本人には多いらしい。また、医師からは「道理適応型」と言われ、これは上述したように理想とする自分に合わせようとして薬物依存に陥るタイプを指している。


しかし、これらが覚醒剤の全てではなく別の側面があるようだ。そのことに気がついたのは、私に寄せられた「セックスばかりしてたんだろう!」というコメントが切っ掛けだ。確かに薬物イコール快楽というイメージは私にも理解ができるが、コメント内容はセックス目的で覚醒剤を使用していたであろう者からの生々しい内容だった。ネットで調べてみると確かにそういうコメントは散見している。


そこで私は使用歴があるという複数の人物と接触をした。すると、必ずセックスの有無を聞かれるのだ。中でも、実際に面談した人物からは、「え?セックスで使ったことないの?」「だから止められることに自信があるんだわ」と言われた。そして「あの快感を知ったら、簡単には止められないよ」と言う。そこで思い返されるのは、妻が警察で取り調べを受けた際に「ご主人に愛人の影はありませんでしたか」という質問を受けたことだ。


芸能人の薬物事件に女性の存在があるのは、そういうことなのかもしれない。また、薬物使用暦27年という男性は「適用範囲内なら危険がないことを悟っている使用者が多い」と言う。つまり、使用目的がセックスによる快楽である者が適用範囲を超えて、医師の言っていた異常な量の摂取と使用期間に至った場合は、幻覚や幻聴に苛まされる重篤な依存症になるということだろう。


正直、私はホッとしている。私たち夫婦は数年間、殆どセックスのない状態にあった。更には、自分たちで子供を産み育てることよりも、日本に里親制度が根付かないことを懸念して、里親になることを夫婦で真剣に検討し始めていた。余談だが、現在の私たち夫婦の営みは一般的に行われるようになっている。


また、ブログの更新を再開した現在、文章力に自信のない私はある知人に添削を願いながら作業を進めているが、それが深夜に及ぶと「細川さん、深夜に作業する癖はご法度ですよ」と、私の依存症完治に対する課題が仕事の仕方、向き合い方にあるということを理解して「今晩はこの辺にしましょう」と促がしてくれている。とても、有難いことだ。


つまり、私が覚醒剤をサクッとやめられるという自信は、家族や友人の支えがあることに加え、覚醒剤によるセックスの快楽を知らずに使用していたことも根拠のひとつにあるようだ。

最後に、医師は依存症の定義を「私生活に支障をもたらす状態」と語っている。確かに、私の逮捕は2月16日であるが、当時、年頃の息子がバレンタインデーをどのように過ごしていたかに全く関心を持っていない。
この事実に気がついたのは、保釈後に私の友人が息子に発した「○○君、もうすぐホワイトデーだけど、チョコは沢山もらったの?」という一言だった。本来なら、父親として私が息子に掛けているべき言葉であっただろう。更には、バレンタインデーである2月14日は父親の命日でもあったが、私の意識からは完全に欠如していた。


これが私生活に支障をもたらしているという実例だろう。私は依存していたことを、こうした事実から自覚することが出来ている。覚醒剤の使用を続ける者は「適用範囲なら」と考えているかもしれないが、その生活の所々で綻びがあることに気付いていないケースが多いのだ。目的が仕事であれ、セックスであれ、この部分は同様であり、決して問題のない薬物ではないというのが、私の考察であり結論だ。また、そういった意味では医師の言う「合法であるアルコールの依存症が最も依存からの回復が難しく、身体にも強い悪影響をもたらす」ということも付け加えておく。


もし現在、覚醒剤やアルコールとうまく付き合っていると自負する者がいるならば、注意を喚起しておきたい。冷静に自らを見つめ返してみて欲しい。僅かでも支障があると感じた者は、必ず、犠牲にしているものが身近に存在しているだろう。その場合、最も大切なものを失うという結果に至る可能性が十分にあるということだ。